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映画「天気の子」にみるセカイ系の考え方

世界系(セカイ系)という言葉をご存知でしょうか?

初めてこの言葉が出たのは2002年10月下旬のことで、その当時に散見されたサブカルチャーの作品やアニメなどを揶揄して言った恋愛体系についての言葉です。

2003年になるとインターネット上で流行語のように語られました。

本当はひとりの人間が中心の狭い空間のことを世界と呼び、一人称や二人称の世界がとても大きく語られることです。

私はこの「天気の子」の主人公ふたりにこの「世界系」を感じます。

以下は多少ネタバレを含むので映画を見てない方で、ネタバレは嫌という場合は読まないでくださいね。

雨が止まず東京は水浸しになっていきます。

それを阻止できるのは陽菜(ひな)と言う天気を「晴れ」にできる女の子の力にかかっています。

帆高(ほだか)はそれをバイト感覚で商売につなげましたが、結局陽菜は自分の身を削りながら晴れにしていたということがわかります。

老女が引越しを余儀なくされる位の水浸しの東京を、陽菜は身をもって救うことを決断し「人柱」となってあの世に行きます。

(人柱とは神への生贄のようなものです。)

帆高は東京がどうなったって、東京が水浸しになったって、陽菜とふたり一緒にいれたらそれでいいと思います。

大雨と引き換えに陽菜をあの世から救い出し、水浸しの東京の中でふたりで 生きていこうと決めるのです。

愛しあう二人にとって「ふたりさえよければそれでいい」という考え方はある意味健全です。

その部分と東京の危機を結びつけてしまえば、「愛を捨てた正義の味方」を選ぶか、「ボロボロの世界でふたりで生きる」ことを選ぶかという二択になるでしょう。

「天気の子」の帆高と陽菜は後者を選びました。

これは二人とも十代ですし、誰も責めることができない決断だと思います。

どちらが正しいとも言い難い。恋愛をしている時は「ふたりの世界」の中で生きていると私は思います。

周りの反対を押し切って同棲を始めたり、結婚を反対され二人で駆け落ちをしたりという状況がこれに当たると思います。

冷静に周りを見れば「ふたりだけの世界とは違う現実」がたくさん起こっています。

恋愛の盛り上がりを早めに迎えた場合、全く周りが見えず、とかく二人の世界に陥りがちです。

年を経てわかることですが、恋愛はある程度時間をかけて育てていき、多少周りが見えている事も大事かなと思います。

突っ走った挙句に、もう少し親や友達の意見を聞いておけばよかったという後悔をした方も少なからずいるでしょう。

私は「世界系」を否定しているわけではありませんが、それだけが恋愛の世界観だとは思いません。

最終的な判断をするのは、結局二人に委ねられています。

実際は映画の世界ではないので、世界を守るというような大げさな選択はありえないと思います。

二人で生きているわけではないので、周りに心配や迷惑をかけない二人であってほしいと思います。

「天気の子の帆高と陽菜はどうか幸せになりますように」 と心の中ではしっかり祈りました。( *´艸`)

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