やくざの家族では「ヤクザ」時代に愛した女性を出所後に尋ねます。
組間の抗争から「殺人」を犯してしまったことで13年ほどムショ暮らしをして帰って来た時、彼女には中学生の娘がいました。
その「ヤクザ」の子供だったのですが、その姿を見たら「人生をやり直す決意」をするのはごく自然な流れだと思います。
現代のやくざは「義理人情」じゃ食べて行くことも出来ず、「足を洗う」には丁度良いタイミングだったこともあって主人公ケンボー(綾野剛)はヤクザの世界を離れます。
- ただ愛する家族を守りたい
- 一緒に暮らす幸せを感じたかった
それだけだったのですが、世の中は「元やくざ」を排除しようとするのです。
それまでは慎ましくも幸せに暮らしてきた母と娘の生活をぶち壊してしまう形になってしまったケンボーは、最終的には元同じ組の若手だった竜太(市原隼人)に刺されて死んでしまいます。
どんなに愛する人に近づきたくても、家族にとって自分は「厄介者」でしかない。
彼とってのやくざとは、自分を救ってくれた「組長との家族の契り」からスタートしています。
つまり、1つの家族の中で功績を残してきたことが、新たな家族との生活には「厄介者」というレッテルにしかなり得ないのです。
時代の変化ももちろんありますが、基本的に反社会的勢力と決別したとしても5年間は様々な制約の中で生き、普通の生活は送れないのです。
その間は家族には一歩も近づかず、仕事を全うにこなして、晴れて会いに行く以外に方法はないのだと思います。
なにもヤクザに限ったことではないかもしれませんが、「近づくだけで迷惑をかけてしまう」という存在に人はなり得るのです。
どんなに愛していても、一緒にいたくても、離れていることが相手のためであることになる愛の形もあります。
一緒にいることで相手を傷つけるのであれば、遠くから見守るしかないのです。
簡単に「悪い奴を好きになったあなたが悪い!」と言えるでしょうか。
自分の家族を殺した相手を殺しに行く。
本来、私たちはそこを法律に委ねるしかありませんが、ヤクザはやられたままにしてはおきませんね。
本当に「悪い奴」とは??
人が誰かを愛する時、「あの人はヤクザだから…」という気持ちを超えて愛してしまうことはあるのではないでしょうか。
そうなれば、生涯会うことが出来なくても、ずっとお互いを想い合いながらも別々に生きていくとう「寂しい愛の形」を貫くしかないのだと思います。
これは「愛した相手に責任を持つ」ということなのだと思います。
辛い未来があったとしても「愛した人」がどんな風に自分たちを傷つけてしまう可能性を持っているのか?
そのことを含めて覚悟して踏み込むことです。
職業で相手を選ぶ以前に「恋に落ちる」ことは誰にでもあります。
「近づけない愛」という形を予想することは難しいですが、「相手を傷つけない愛」を全うすることもひとつの「愛の形」だと認識していてほしいと思います。